少し前まで同じグループのメンバーだった子の話なのだから、
いろんな情報があたしの耳に届いてくるのは当然だった。
むしろ、卒業してからでも些細なことまであたしに伝わってくることが、
モーニング娘。ってグループにあたしがいた証みたいな感じがして、嬉しかった。
けれど、知りたくない話だって時にはある。
普通だったら、とても微笑ましい、かわいらしい話なのかもしれない。
いや、そうあるべきことなのだと思う。
後輩が先輩のことをこれでもかって慕っていること。
今までだっていくらでもあったし、あたしだって後藤さんのことをずっと慕ってた。
だからそんなことは、外から見て笑っていられればいいのに。
―――なのに。
『ねぇねぇ、愛ちゃん、生田がさぁ』
『………』
『…愛ちゃん? 聞いてる?』
『…なんよ、里沙ちゃんは生田イクタって…、
最近、いっつも生田の話ばっかりやん…』
『…愛ちゃん?』
『そんなに生田がかわええか? くっついてきて慕ってくりゃかわええよなぁ』
『愛ちゃん、どしたの』
『……もう聞きたくないわ……』
『愛ちゃん』
『里沙ちゃん、生田のことが好きなん、』
パシィッ。
『当たり前じゃん、好きだよ!』
『………』
『もう、今日は帰る』
『…里沙ちゃ』
『バイバイ』
まだ左の頬に感じる痛みに、思わず手を当てた。
その時のことを思い出しては、何をバカなことを考えていたんだろうと自己嫌悪になる。
ずっとずっと、自分の胸の中をぐるぐると気持ち悪く漂っていた感情は、
あの一瞬に思いっきり暴走して、彼女のことを怒らせて傷つけた感情は、
どんな言葉で表されるものなのかは、ふと冷静になった瞬間にはすぐにわかっていた。
単なる、嫉妬だ。
ただ、あたしは焦っていたんだと思う。
同じグループではなくなってしまった。
それまでは毎日のように会っていたのに、いくら恋人同士でも今はそうはいかない。
後輩である生田は、当然今も里沙ちゃんと同じグループだ。
「今」の里沙ちゃんをよく知っているのは、間違いなく現役メンバーの方。
積み上げてきた大きな10年があたしたちにはある。
誰にも踏み入ることができない、あたしたちだけの絆が確かにある。
だけど、それがいつかがらりと崩されて塗り替えられちゃうんじゃないか―――
「…んなワケ、あるかよ、なぁ…」
不安を必死で打ち消す。
こんなことを考えてるのは、他ならぬ里沙ちゃんを信用してないことになる。
里沙ちゃんがあたし以外を選ぶことなんてない。
里沙ちゃんは、ちゃんとあたしのことを見てくれている。
どれだけ生田がかわいいって言っても、それは恋人として見るのとはまた別、
―――の、はずで。
「…はず、ってなんや、はずって…
里沙ちゃん信じろやあたし…」
今のあたしは、どうしようもなく弱気なのだ。
頬を引っ叩かれて、喧嘩別れしたのがもう四日も前。
それから電話どころかメールもしていない。
彼女があの日言った『好き』の意味だって、冷静に考えればわかる。
だけど、あの時のあたしを打ちのめすにはこれ以上ない言葉だった。
弱り切った今のあたしを、じわじわと追い詰めていく言葉でもある。
そうしてまた、その意味に自信が持てなくなってくるのだ。
「……里沙ちゃんおらんくなったら…あたし…、やっていけんよ……」
―――ねぇ、あの時の『好き』の意味は、あたしにくれる『好き』とは違うよね―――?
仕事が終わって新幹線に乗り込んだ頃、外はもう真っ暗だった。
窓を激しく叩いた雨が、勢いよく後ろへ飛んでいくのをぼんやりと眺めていた。
「…外、寒そうやなぁ…」
そういうときに頭に思い浮かべるのは里沙ちゃんのこと。
手を繋いだり、腕を組んだり、身体を寄せ合ったりして求めたくなるのが彼女のぬくもり。
なのに、今、それは叶いそうにもない。
いつもならばその手を絡める左手を、淋しく見つめた。
どうしようもない嫉妬だってわかっているのだ。
あたしは里沙ちゃんより二つ年上で、生田に比べたら十一も違う。
それなのに一番大人げない考えでいるのは、このあたしなのだ。
謝らなきゃいけない。
里沙ちゃんにも、それからたぶん、生田にも。
でも、あたしを叩くくらいに怒る里沙ちゃんを久々に見たから。
それだけ彼女のことを怒らせたって自覚はある。あの日のあたしの感情は、本当に醜かった。
だから、いざ里沙ちゃんと話をしようとする勇気が出ない。
呆れてるんじゃないか。まだ怒ってるに決まってる。
今日までにだって、何度もiPhoneとにらめっこはしたのだ。
傘を差す手がかじかむ。
冷たい雨に打たれて冷え切っていく身体と一緒に、気持ちまで弱り切ってしまう。
吐き出したため息が、白い雲になって空へと消えていく。
…あたしの悩みも、こうやって消えてくれればいいのに。
帰り道、歩きながら電話しようと思っていたのに、もう家の玄関まで着いてしまった。
また、今日もダメだった。
あたしはいったいいつまで引きずるつもりなんだろう。
何度かのため息も、やっぱり白い雲となって散っていく。
鍵を開けて家の中に身体をねじ込んで、ドアにもたれ掛かって目を閉じた。
時間が解決してくれる話じゃない。
あたしが、どうにかしなきゃいけない。
今から着替えて、そしたら今度こそ里沙ちゃんに電話しよう。
出てもらえなかったらせめてメールだけでも送ろう。
このままじゃ何も変わらない。
もう、限界だ。…あたしの弱ってる気持ちが。
決意と一緒に閉じていた目を開いて一歩進んで、視界に映ったものに絶句した。
「…え、ちょっと……」
見慣れたブーツが、きちんと揃えて置いてある。
事態を頭でちゃんと整理できる前に、あたしの涙腺は一気に緩んだ。
はやる気持ちで指先が上手く動かない。
ブーツを縛り上げた靴紐がまだ解けきれていないままに玄関を駆け上がる。
爪先が引っかかって、大きくよろめいて壁にぶつかる。
痛い。だけどそれ以上に、心臓が強く強く叩いてくる胸の方が痛かった。
「おかえり」
リビングのドアを乱暴に開けたら、彼女は立ち上がってあたしを迎えてくれた。
夢なのかな。夢かもしれない。彼女がここにいてくれる理由がわからないから。
だけどあたしの本能は、本当に正直だった。
彼女に向かって情けなく両手を差し出して、よろよろと歩き出す。
その手を取って腕に抱き込んでくれたぬくもりは、間違いなく里沙ちゃんのものだった。
雨粒だらけのコートもそのままで、里沙ちゃんの服を濡らしているのはわかっていたけど、
あたしは、ずっとずっと求めていたものを手放したくなくて、
背中に腕を回して、胸元に顔を埋めて、みっともなく声を上げて泣いていた。
里沙ちゃんはあたしが落ち着くまで、頭とか背中を静かに撫で続けてくれていた。
「……ごめん」
気持ちも整って、里沙ちゃんから身体を離したあたしはまず一番に謝った。
頭は下げたままで、まともに顔も見られない。
そういえば、あたしはこの部屋に入ってきたときも彼女の顔を見ていなかった。
それよりも、里沙ちゃんがここにいることに心底驚いたから。
「…なっさけない嫉妬で、すごい申し訳ないこと言ったって、
めっちゃくちゃ、反省してる…」
里沙ちゃんは相づち一つ打たない。どんな顔であたしのこと見てるんだろう。
「…こわくて。
あたし、里沙ちゃんと一緒にいる時間少なくなったの、怖くて。
同じ時間過ごせない分、里沙ちゃんの時間を誰かが埋めちゃうの、すっごい怖くて…」
あたしの弱くてみっともない気持ちをありのままにさらけ出す。
「里沙ちゃんのこと、好きで好きで誰にも渡したくないんよ…っ」
引っ込んだはずの涙が、またこぼれ落ちた。
「…愛ちゃんは」
里沙ちゃんの手のひらがあたしの顎を撫でて、そうっと上を向けさせられる。
「子供だなぁ」
今日、初めて見た里沙ちゃんの顔は、予想しなかったくらいに穏やかだった。
近づいた唇に目尻の涙をぺろりと舐め取られて、こつりと額が合う。
「でも、あたしも同じくらい子供っぽいこと考えてたよ。
愛ちゃんだってあたしのこと全然わかってくれないって、
舞台とかそういうところで、もしかしたらあたしよりいい人見つけてたらどうしよう、って」
「そんなんっ」
「ね、だから、愛ちゃんもあたしも一緒なの。
ちょっと不安なことがあると、変なこと考えちゃうのは一緒なの」
違う、と言いかけた声は続いた里沙ちゃんの言葉に飲み込まれた。
里沙ちゃんも、あたしと同じ?
同じように、こんなにどうしようもなく苦しくなるの?
「生田のことは、好きだよ」
思考が里沙ちゃんの声で途切れる。
出された名前にずきりと痛む胸の奥。思わず、右手を当てた。
「でもね、いくら生田がかわいくても、それは愛ちゃんと同じ『好き』にはならない。
あたしが、こんなにも頼って、頼られて、甘えて、甘えられて、
ぬくもりがほしいって思ったり、キスしたいって思ったり、
―――そういうとこまでいく『好き』は、愛ちゃん以外にありえないから」
左の頬に、口づけられた。
そのあとを手のひらが追いかけてゆるゆると撫でられる。
「…あたしもあの日、あんまり気持ちに余裕がなかったみたい。
愛ちゃんのこと叩いて、愛ちゃんの家飛び出してから、すごく泣きたくなった。
愛ちゃんの気持ち、すぐにわかったから。
あたし、愛ちゃんのこと全然考えないで生田の話ばっかりしてたから。
……痛かったよね、ごめんね?」
「…あ、たしが」
声が、掠れた。
「…あたしが、子供すぎたんが悪いんやもん…
里沙ちゃんは、謝らんでよ…」
あたしのこと、何もかも見透かされてて。
でも、里沙ちゃんがそばにいないこと。
里沙ちゃんの声が聞けないこと。
それが、あたしにとってどれだけ苦しかったことか。
きっと、里沙ちゃんも苦しんでて。
悪いのはあたしだけど、あたしに手を上げたこと、きっと悩んだりしてて。
この人は、そういう人だから。どこまでもやさしい人だから。
あたし、頭の中は子供だから、またこうやって里沙ちゃんを困らせたりすると思う。
喧嘩して傷つけあって落ち込んで、何度も仲直りして、それで少しずつは大人になれるのかな?
向かい合う里沙ちゃんの瞳を見つめた。
潤んでいく涙の奥で、その中にきちんとあたしが映ってることに安堵する。
伸ばされた手を、今度はあたしが受け止める。
「…会いたかった、愛ちゃん…」
耳元で囁かれた声。強く強くその身体を抱き締めた。
「…あたしもやぁ」
久々に感じた慣れ親しんだ体温が、あたしの心をやっと溶かしていった。
二人の涙が、一緒に絨毯の上で弾けた。