8.
「…なーんてね。ちょっと脅かしすぎたかな」
あさ美は里沙の口にそのカプセルを放り込むと、今までとは違った脳天気な声を上げた。
「安心して。そのカプセル、普通の回復剤だし」
強制的に嚥下させられたことには少なからず不快感をおぼえていたが、
言われてみれば目覚めた時に感じた瞬間移動によるダメージが、少なくなったような気がした。
「…どういう、こと…?」
里沙は、あさ美の意図するところが読めないでいた。
さっきまでとは、明らかに様子が違う。
カプセルの中身は想像していたような睡眠剤などではなく、あさ美の言うとおりの回復剤には間違いない。
でも、どうして? 彼女は、何を考えている?
「愛ちゃんを助ける理由。さっきのなんて、嘘だよ」
「嘘…?」
「…単純に、あんな闇の中にいる愛ちゃんなんて見たくなかったし、
ガキさんにも…ここからは逃げてほしいって思ってる」
里沙は、唖然としながらあさ美を見上げる。
「…さっきのは出来心のイタズラだったんだけど、ちょっとマジになりすぎたかな」
あさ美は里沙の目の前にしゃがむ。
冷静で冷徹な、刺すような目つきは今のあさ美にはなく、
別人のように穏やかな表情で里沙を見つめていた。
「…何年一緒にいたと思ってるのさ」
あさ美は笑って、里沙の頭を撫でた。
その笑顔は、かつて共に過ごしていた時には毎日のように見ていたもので、
Dr.マルシェというダークネスのトップサイエンティストには似合わぬ、
やわらかくて、そしてどこまでもやさしい表情だった。
「ガキさんが愛ちゃんを想う気持ちの強さも、
愛ちゃんがガキさんを想う気持ちの強さも、
どっちだって揺るがないものだって、見ててわかってたよ」
里沙の頬を、一筋の涙が伝う。
あさ美はそれを親指で優しく拭うと、里沙の肩をぽんぽんと叩いた。
「リゾナンターは、この世界を変えなくちゃいけない。
人々の心に巣くう闇を取り除く正義として、生き続けなきゃいけない。
ガキさんもその使命を負ってるんだって思ってる。
だから、ガキさんはここにいるべき人じゃない」
あさ美は、まっすぐに里沙の目を見て言った。
肩書きこそダークネスの幹部であり、構成員も恐れる存在と言われるけれど、
その心にはまだリゾナンターの意志が残っているのだと、里沙は心の中で喜んだ。
「じゃあ、こんこんも…!
こんこんの力が今のリゾナンターにあれば、ダークネスだってカンタンに…!」
あさ美の手を握り、身を乗り出して訴えかける。
里沙自身が、元はダークネスの構成員でありながらリゾナンターになったように。
今のあさ美だってその志があればリゾナンターに戻れると、そう信じていた。
「…ガキさんの気持ちは嬉しい。でもね」
あさ美は静かに呟く。
「残念だけど、私はもうここを出られない」
小さく首を振りながら、着ている白衣の袖をまくりあげた。
現れた二の腕は、里沙の知るあさ美の肌とは違い…、
「それって…」
「ダークネス“様”への、忠誠の証」
わざわざ「様」を強調しながらあさ美は言った。
白衣の下から現れたのは、腕を蝕むように描かれた鎖の模様のタトゥー。
確かにそれは、あさ美から自由を奪う枷に見えた。
「ダークネスに一生を捧げると誓って、このタトゥーが掘られて、それで一人前」
「一人前…」
「そう。組織内での階級を与えられて、昇格していける。
例えば私みたいな研究員だったら、
自分専用の研究室が与えられて、望んだ機材や材料も与えられて、
好き勝手にいろいろな研究もできるようになる。
もちろん、実力があれば…、だけど」
あさ美は腕をさすりながら、袖を元に戻した。
元に戻された白衣からは、タトゥーの存在は見ることができない。
「私がここを脱走しようとすれば、タトゥーの呪いが発動するの」
「呪い…?」
「そう、人じゃいられなくなる実験台になるか、身体ごと消滅させられるか、どっちか」
「……!!!」
里沙は言葉が出なかった。
あまりにも淡々と語られるその内容は、あまりにも悲惨だった。
「どっちになるかはダークネスが決める。
必要もなければ消滅させられちゃうだろうし、いい献体になるとすれば、実験台」
「じゃあ、こんこんは…」
「間違いなく、実験台だろうね。
私が逆の立場だったら、こんな献体は放っておけない」
「そんな……」
里沙はその場にがっくりと膝をつき、顔を覆った。
「一緒に戦うことも過ごすことも…、もう、ムリなの?」
「…ガキさんがリゾナンターに戻るのであれば、
基本的には、もう、できないよ」
あさ美は里沙に背を向けたまま、静かにそう告げた。
「…ひどいよ…」
里沙はうなだれ首を左右に振りながら、床を二度、三度と叩いた。
もう心を交わすことはできないだろうと思っていた昔の仲間。
思わぬ形で再会することになっても、里沙は心から嬉しいと思っていた。
ダークネスの中心人物たり得る地位に昇ってしまったあさ美が、
今もなお光の志を持ち続けていてくれたということに、
里沙は、また手を取り合うことができるはずだと大きな希望を抱いていた。
だがそれを、あさ美本人の口から否定された。
嘘でも、また笑いあえるのだと言ってほしかったのに。
「…ガキさん、泣かないで」
あさ美は、里沙の頬を伝うしずくを拭った。
そして里沙を腕の中に抱き込み、頭を撫でる。
「…確かに、私はダークネスに魂を売り飛ばしてしまった…、でも」
小さく息を吸い込み、目を閉じた。
「私がダークネスにいることで、みんなを助けることもできるはずだから」
「…助ける…?」
あさ美が小さく笑ったのが、里沙の身体に伝わる。
「今日みたいに、ね?
愛ちゃんを救うこともできるし、ガキさんをあっちに戻すことだってできる」
あさ美は里沙を抱きしめたまま、器用に白衣のポケットから小さな箱を取り出した。
それは先ほど愛に使ったものとまったく同じ機械箱。
「…二個くらい作っておけば十分足りるかなと思ってたんだけどね。
まさか一日で両方とも使っちゃうなんて、全然想像してなかったんだけど」
身体を離すと里沙の手にそれを持たせて、両手で包む。
「『非常脱出用』としてダークネスに指示されて作ったんだけど。
まだ設計図もデータもあるし、作ろうと思えば作れるし」
「…ありがとう、こんこん…」
「さ、早くしないと。
構成員たちに見つかる前に、それ使って、逃げて」
あさ美は笑っているのに、その笑顔を見ると里沙の涙は止まらなかった。
今ここにはいない麻琴も含めて、四人でもう一度一緒に過ごしたかった。
その心にまだ光が宿っているのであれば、なおさらだった。
「…ガキさん、愛ちゃんとの約束、ちゃんと果たすんだよ?」
あさ美は笑いながら、里沙の胸元に着けられたダークネスのバッジを外して投げ捨てた。
そして自分の右手の小指を、里沙の目の前に差し出した。
「私も、約束するから。
必ず、ガキさんと愛ちゃん…、そしてリゾナンターの力になれるよう、協力する」
里沙はゆっくりと自分の手を伸ばし、その小指に絡める。
「…またね」
里沙は空いた左手で顔を覆う。
あさ美は、そんな里沙の代わりに機械箱のスイッチを押す。
里沙の身体が徐々に光に包まれ、光の粒となって溶け出し始めた。
「必ず…!」
全てが消えゆく直前、里沙はあさ美の顔を見て叫んだ。
「次会えるときは…、きっときっと、笑顔で…!」
あさ美の小指と結ばれた里沙の小指を最後に、里沙は光の中へと消えていった。
それを見届けると、あさ美はその場にぺたりと座り込んだ。
「…幹部失格だなぁ…、マルシェちゃんも…」
ひとり呟くと、白衣の袖を目に押し当てた。
あさ美が愛を闇から解放した理由は、献体としての価値という理由も間違いではなかった。
科学者として、愛の持つ能力が魅力的であることには違いなかった。
それでも、里沙が必死で訴えかける姿に、忘れていた想いが呼び起こされた。
愛を助けたいと。愛にもう一度、会いたいと。そして、光を取り戻したいと。
監視下に置かれている里沙の逃走の手助けなど、幹部である自分が許されるはずもない。
けれど、まだ自分の中にこんな想いが残っていることに気づかせてくれた里沙。
彼女なら、彼女たちなら、きっと何かを変えてくれるはず。
あさ美はそう信じることにした。だから、後悔はしていない。
「…さて、どうやって言い訳しようかなぁ…」
瞬間移動装置の喪失。あさ美は、嘘をついていた。
この装置を再生させることは、実はもうできなかった。
愛がまだi914という名でダークネスの献体だったときに採取されたサンプル。
そのサンプルを精製し改良を加えて、瞬間移動を可能にする光の粒を作り出した。
それが、あの機械箱。
だが、膨大にあったはずのサンプルをもってしても、作れた箱はたった二つだけだった。
サンプルを再生することも同じだけのモノを作り出すことも、完全に不可能だった。
あさ美は苦笑いを浮かべながら、里沙の部屋を後にした。
目の前を通った構成員に、さも今気づいたかのように告げる。
「被監視対象者、逃走の模様―――」