二つあると思ったはずのものが、一つしか手元になかった。
ポケットを探してもカバンを探しても、もう一つはどこにもなかった。
今さら、元来た道を戻ることなんてできやしない。
だから、私は願った。
どうか、誰の目にも触れぬところへ、あってほしいと。
だけど、私は願った。
どうか、あなたの目に留まるところに、あってほしいと。
「なーに窓の外なんて眺めてんだぁ新垣ぃ」
慌てて、手の中のものをとっさに隠す。
まったくやましいものでもなんでもないはずだけど、
頭の中がそのことばっかりで、そのことがどうにも恥ずかしくて、バレたくなくて。
「吉澤さん…」
「ヒマなのはわかるけどさぁ。
もうちょっとシャキッとしてみなさい、シャキッと」
リゾナントの先代リーダー、今はダークネスに拾われた人。
お互いにリゾナントに在籍していた時は、あたしの正体なんて知る由もなかったはずなのに。
ダークネスに戻ってきたあたしとばったり出会うなり、口にしたひとことは、
『あぁ、なるほどね』
もっと驚かれると思ったのに。
もっと失望されるかと思ったのに。
そのどちらでもない反応に、あたしは戸惑いを覚えた。
ダークネスに戻った私に与えられた任務は、「待機」だった。
ヘタに行動するな、ということだろうか。
長年、スパイとしてとはいえリゾナントの一員として生活してきていた。
身体に染み込んでしまった習慣や、特に「情」を、リセットさせるための措置なのだろう。
でも、そんな措置でまっさらになるほど簡単な想いじゃない。
自分がスパイであることを、どれだけ恨んだことだろうか。
メンバーと作り上げてきた絆を、どうしても素直に喜べない自分が悲しかった。
帰還命令に背くことが出来れば、どれだけあたしは楽になれたのだろう。
けれど、所詮あたしは組織から行動を制限されたスパイ。
命令への造反は、一瞬で命を失うことにも繋がる。
事実あたしは一度、殺されかけているのだから。
ポケットの中に手をやった。
二つあるはずのものが一つしかない。
「A」と書かれたそれが、余計にあたしの心を騒がしくさせる。
あの時、交換なんてしていなければ。
そのまま「R」を持っていれば。
「A」の文字を見てあなたを想い苦しむことも、なかったはずなのに。
あたしがケータイから外したはずのお守りは、どこにもなかった。
いつどこでなくしたのか、見当もつかない。
忘れ去るためには、ムダというよりもむしろ逆効果なのもわかっていたけれど。
こうしてお守りを握りしめることが、いつしかあたしのクセになっていた。
「吉澤さんは、あたしのこと、知ってたんですか」
あたしの正体を。
あたしがリゾナントにいた理由を。
あたしを仲間だと思ってくれていた人全てを、裏切っていたことを。
吉澤さんはあたしの隣に腰掛けて、目の前の窓を開けた。
入り込んでくる風が、金色の短髪を揺らす。
「知るわけねーじゃん、そんなこと」
じゃあ、どうして。
あたしの疑問は口から出る前に、続いた言葉に制された。
「だけどここに来た時に、わかったよ。
ガキさんがどういう立場に立たされているのかは」
同じ組織の一員として。
「ひっでぇ組織だよな、ココ。
相手方にスパイ送り込んで一緒に何年も生活させるって、あたしだったら気が狂うわ」
吉澤さんは、腰に下げていた短刀を抜いて、太陽の光にかざした。
刀身に反射した光が、あたしの顔を照らす。
「ご丁寧に、スパイにまでいろんな暗示やら魔法やら術やらがんじがらめにかけてな。
反抗したら即刻裁きを下しにやってくるクセに、
そのくせ意外とプライベートは覗かないとか、ホントアホな組織だと思うわ」
プライベート?
その意味を一瞬考えて、すぐに吉澤さんの言わんとすることに気づく。
「おめーらの絆は、絶対に本物だった。
嘘じゃない、近くからも遠くからも見ていたあたしが保証する。
お互いを助け合って支え合って呼び合って響き合って、完成されてた」
あたしは、お守りを握りしめた。
「…新垣、元・お前の先輩として、命令する」
こちらを向いた吉澤さんの目は、どこまでも真剣だった。
「お前がいるべき場所は、こんなところじゃない。
ここから、逃げろ。
そして、お前を待つ場所に、今すぐ戻れ」
後は任せておけと、吉澤さんは言った。
なるほど、ダークネスに戻ったことで、
あたしにかけられていたあらゆる「制限魔法」は解かれていた。
自由の身ではあるけれど、この組織から飛び出すことが、危険すぎた。
「待機」を命じられたあたしに、組織外への外出は認められていなかったからだ。
組織の入口には監視役がいる。もちろん能力者が。
それを、吉澤さんが食い止めるというのだ。その隙に、抜け出せと。
『なーに、死にそうになったらまた助けてくれるでしょ、あいつらが』
なぜ、そんな危険なことを笑って言えるんだろう。
あなたをも裏切っていたことになる、このあたしをここから逃すために。
『だって、会いたいんだろう?
どうしたって忘れられないんだろう?
お前の心を、一番あったかくしてくれるヤツのことを。
だったら、そこがお前のいるべき場所であって、こんな場所はお前がいるべき場所じゃない』
吉澤さんの咆哮がこだまする。
あれだけの数の能力者を一人で受け止め、それでも圧倒するその実力。
一度は戦いに敗れ、命を奪われた吉澤さん。
リゾナントのリーダーであったその才能を惜しまれ、ダークネスによって蘇らせられた人。
でも、肉体に残った強靱な精神が、リゾナントをずっと愛していてくれた。
『なんとしても、探し出せ。見つけ出せ。
お前が本当にいるべき場所を!』
自分の危険も顧みないであたしの背中を押してくれた吉澤さんのためにも。
あたしは、「A」と書かれたあのお守りを右手に握りしめ、夜の街を駆け出した。
まっすぐ「リゾナント」に行けば、容易く彼女たちに会うことは出来ただろう。
でも、あたしは彼女たちの記憶を消して、あの場を離れた。
それなのに今さら戻ったところで、いったい何が出来るというのだろう。
そう。
会いに行っても、あたしが愛したみんなは、あたしのことを覚えていないのだ。
他ならぬ自分の手によって、あたしに関する記憶は消されているのだから。
あたしは途方に暮れた。
あの場で、全てなかったことにして、一からやり直すことが、
あたしの求めている場所なのだろうか?
街灯もまばらな夜の道を、宛もなく一人で歩いていた時だった。
「…?」
そんな、まさか。
向こうから走ってきた女性の姿に、めまいすら覚えるほど動揺した。
こんな場所で出会うはずがないその人が。
何もかもを覚えていないはずのその人が。
確かにあたしの前で足を止め、息を切らせながらあたしを見つめている。
どうして。
どうして、どうしてなの。
「…愛ちゃん…」
思わず口からこぼれた、愛しいその名前。
どうしてあなたは、あたしを見て足を止めたの?
「…里沙ちゃん…!!!!!」
駆け出す愛ちゃんの顔は、涙でぐっちゃぐちゃだった。
なぜ、名前まで覚えているのだろう。
あたしは、夢を見ているんだろうか?
想いだけが強すぎて、現実と理想とが混在してしまったのだろうか?
だけど、抱きしめられた手の強さと、あたたかさと、伝わる鼓動が、
これが夢ではないということをどこまでも証明していた。
―――現実だって、信じてもいいんだよね?
あたしはおそるおそる、愛ちゃんの背中に手を回す。
震える指先がその熱をとらえて、吸い寄せられるようにその身体をきつく抱きしめた。
「愛ちゃん…!!!」
音にするだけで、こんなにも愛おしい彼女の名前。
愛ちゃんの身体が、ぴくりと震えた。
「帰ろう里沙ちゃん、みんなのとこに」
あたしは戸惑う。
ねぇ、あたしを許せるの?
全てを裏切り、全てをなかったことにして消えたあたしを、もう一度受け入れてくれるの?
いつまでも次の言葉が出ないあたしの顔を、愛ちゃんの手がそっと撫でた。
見ればその手には、あたしが探していたはずの「R」のお守りがあった。
いつか、あたしは願ったけれど。
こうして本当にあなたの手の中にあったのだとしたら、やっぱりそれが運命なのだと。
あなたはいつもあたしを守ってくれていた。
あたしは、あなたを守ってあげられる?
愛ちゃんはあたしの手を取り、笑顔で言った。
「またお泊まり会するで、今度は9人で一緒に飲もう」
もう、二度と会えないと思っていたメンバーの顔が次々と浮かぶ。
もはや視界がぼやけて見えないその先に、一番大事なその人の顔がある。
「あっしが淹れたモーニングコーヒーを」
―――あふれて止まらぬ涙をその肩に押しつけながら、あたしは何度も頷いた。
あたしは、リゾナントのために生きようと。
そしてあたしはもう、あなたから離れない。
あなたを、愛ちゃんを、必ず守ってみせるんだと、固く心に誓った。