その日。
れいなは一人で、パンチやキックの練習をしていた。
パーカーを着込んで、フードをかぶって、
真っ暗な公園でずっと同じことを黙々と繰り返して。
まるで、ボクサーのように。
何かに追い詰められているかのように。
あたしは、声をかけずにただ黙って見ていた。
もう、1時間は経っているだろうか。
でもれいなの動きやキレは、まったく落ちていなかった。
それだけのスタミナと敏捷性が、れいなの最大の武器だった。
『れーなは、誰よりも強くなりたい』
人を傷つけることしか知らなかった幼い頃も、
大切なモノを守るということを知った今も、
れいなは、同じセリフを口にしていた。
その心境の変化を、あたしはずっと見てきている。
自分以外の何も信じることが出来ず、手当たり次第に拳をふるって生き抜き、
やさしさや思いやりや愛情など、そんな感情はまったく知らずに育ってきた。
誰にも負けないという信念だけを持って。
あの尖った目つきと、身体中から出された殺気。
初めてあたしと会った時、警戒をまったく解かずに睨み付けてきた。
青白く変色した瞳に、全ての感情を込めて。
だけどその心の中に、あたしは違うモノを見つけていた。
自分よりも強いヤツがいるかもしれないという、怯え。
あたしに完全に組み伏せられた時、れいなの目には初めて恐怖の色が浮かんだ。
れいなが体験したことのない「負け」という事実。組み伏せるのは、いつもならば自分だから。
殺るか殺られるかの中で生きてきて、初めて『死』を意識したのだろう。
それでもれいなは逃げようともせず、あたしに向かって叫んだ。
『殺すなら殺せよ!』
あの時のれいなの目は、忘れられない。
最後まで後ろ向きな姿勢を見せず、相手に弱みを見せようとしなかった。
あたしが手を振りかざすときつく目を閉じ、顔を背け、身体を硬直させた。
最後の一撃が来ると思ったのだろう。
そっと顔を撫でて身体を抱きしめてあげた。
れいなは、突然のことに目を丸くしながら、涙をこぼした。
きっと、初めて触れた「やさしさ」であり「愛情」だったのだろう。
『人を傷つけることだけが、力の使い方じゃない』
『人を守ることができるのが、本当に強い力の使い方』
『あなたはまだ、持っている本当の力を知らない』
『だから』
『その力を、あたしに預けてみない?』
あの日、れいなは生まれ変わった。
人に身をゆだねることを覚えて、人から与えられる愛を知って、人に与える愛を知った。
守りたいモノを見つけ、守るモノのために強くなり、ムダな争いは避けるようになった。
『れーなは、みんなを守るために、誰よりも強くなるけん』
いつしかそれがれいなの口癖になり、れいなの信念となり、
他のメンバーには黙ってこっそりと修行しているのは、
同じ家に住むことになったあたしだけが知っていることだった。
れいなはリゾナンターとしては、一人では「能力」を発揮できない。
メンバーの能力を増幅するその「能力」は、誰か対象がそばにいてこそ発揮される。
れいな自身の力は、自身の能力では増幅することはできない。
『…やけん、れーなは、強くなるっちゃ』
拳には、能力は関係ないのだから。
あたしはずっと腰掛けていたフェンスから飛び降り、静かにれいなに近づいた。
一人、シャドーボクシングのようにパンチやキックを繰り出す、その後ろへ。
「愛ちゃん、ずーっとれーなのことなんか見とって飽きんと?」
れいなはこちらを見ない。
むしろ、さっきまでまったくこちらを気にするそぶりも見せなかったのに、
れいなは、あたしがいたことにずっと気づいていた。
…もちろん、れいながそれに気づいているだろうということは、あたしも百も承知だ。
こういう勘と状況判断はメンバーの中でもかなり秀でている。
今まで、その判断と正確さに何度助けられたことだろうか。
「飽きるわけないやん」
あたしは歩みを止めた。
れいなは、動きを止めない。
「だいたい、練習見られるのってめっちゃ恥ずかしいけん」
れいなはそう言って、やっと動きを止めた。
「みんなは知らんのに、愛ちゃんだけが知っとーと。
…まぁ、しょうがないけん、一緒に住んどるし」
れいなは陰で努力をしたい子だから。
確かに自分が同じ立場だったら、誰かに見られるなんてことは避けたい。
「悪かったと思ってるけどさ、ずーっと見てたのは。
でも今日はただ見てるだけじゃなくて」
あたしは、密かにずっと、心待ちにしていたことがある。
「れいなと、戦ってみようかなって」
「ちょっ! なん言っとーと!」
れいなは案の定驚いていた。
「愛ちゃんと戦うために強くなってるんやなかとよ!?」
その言葉に、なぜだか嬉しくなった。
「昔のれーなだったらそんなこと言わんかったやろね」
「愛ちゃん?」
これだけの日が経っていれば当たり前なのかもしれないけれど。
れいなは今、心からそう思ってくれているはずだ。
あたしが導いた正しい『力』の使い方、誰かを守る力。
ただ、自分の力を試すためではなく、大切なモノのために、誰にも負けないような。
「だけど、今はあたしと戦ってほしい」
れいなを、試したい。
「愛ちゃん…何言っとーと…?」
納得がいかないのだろう、地面の小石を蹴り飛ばすれいな。
じゃあもし、これがあたしではなくて、かつての仲間――今はダークネスの――だとしたら?
その姿が、一瞬の命取りになるのだとしたら。
「そっちが来ないなら、こっちから行くよ」
あたしがすかさず間合いを詰めると、れいなはとっさに身を翻して距離を取った。
「…本気で?」
「あーしは、嘘は言わんよ」
れいなはそこで、表情をようやく変えた。
「そんなら、れーなも本気で行かせてもらうっちゃ!!!!!」
れいなは地面を蹴り、あたしに向かって飛びかかってきた。
『明日、れいなと戦ってみようと思うんよ』
『は?』
昨日のうちに、あたしはみっつぃにあるお願いをしていた。
もちろん、突然の話にみっつぃはポカンとする。
『…高橋さん、本気で言うてはります?』
『なんで? 嘘でもつくと思うんか』
『いや…田中さんと戦う理由が愛佳にはわからんので。
どしたんですか? なんかケンカでもしはったんですか?』
『明日、あたしとれーなが戦って、どうなってるか視てほしいんやけど』
『ちょ、ちょ、そんなん勝手すぎませんか!
愛佳の質問にも答えんでこっちは何が何やらわからんのに、
そんなでたらめな感じで予知もなにもあらへん』
みっつぃは両手をブンブンと振って拒否する。
無理もない、無茶なお願いをしているのはわかってるから。
『じゃあ、理由教えたら考えてくれるかの?』
『ば、場合によりますけど…』
『れーなは、ちょっと優しい子になりすぎちゃったんやよ』
『え? いいことやないんですか?』
『…相手が急に攻めてきた時に、ほんの少しだけ油断しとる。
それが命取りにならんといいなって、最近思うんやけど…』
『…愛ちゃん』
『わぁお! ガキさん、まだ残っとったんか』
『残っとったんかじゃないよ、何をまたバカなことを考えて…』
『バカなことやないよ、あーしは本気やよ』
『そんな、お互いに危険なことしなくたって…
だいたい、愛ちゃんの不在でここはどうするわけ?』
『そこは、ガキさんが守ってくれとったらええやん。な? みっつぃ』
『え? あ、はい…』
『ちょっとみっつぃ!? …何であたしなのよ…もう………。
わかったよ、けど絶対に無理してきちゃダメだよ!』
『大丈夫やって。あーしリゾナントのリーダーやで?』
『それこそ油断じゃないの…?』
昔のれいなは、相手の奇襲を真っ先に嗅ぎ付けていた。
最近はその役割はどちらかといえばあたしが多く、それでもちろん不足はないのだけど、
何か、物足りないような気がしていた。
確かに、いざ戦いになればれいなの力は本当に頼りになる。
メンバーの中で己の肉体をぶつけて戦うのは、れいな一人だけ。
ダークネスに能力を封じられた時、その拳であたし達を助けてくれた。
何もあたしと出会う前のように、全てに対して警戒していろというわけではない。
戦闘の出足が遅いことだけが気がかりなのだ。
その一瞬を、相手への先制攻撃に使うことができれば。
その一瞬で、相手への撹乱攻撃を仕掛けることができれば。
だから、あたしは確かめたかった。
れいなの勝負勘は、錆び付いていないのかと。
なぜ、最前線に飛び出さないのかと。
れいなの思考を読み、次々に打たれる攻撃をかわしていく。
右パンチ、左ハイキック、そこから回し蹴り、間髪入れずに正面に突き―――
あたしはまず、相手の隙を見つけるためにその表情を窺う。
れいなはこれだけの攻撃を全てかわされているにもかかわらず、焦りの色一つも見せなかった。
『視えました、高橋さん』
みっつぃはしばし目を閉じて何かを念じたあと、静かに言った。
『公園、行こうとしてはりますね。しかも、真夜中』
『田中さんは、ずっと一人でおる』
『高橋さん、しばらく黙ってますね』
『…戦い、始まりました。結果は―――』
「もっと動けるんやろ!? もっとかかってこい!」
「れーなを甘くみるんやなかと!!!」
多種多様に繰り出す攻撃をまったく当てることができないのに、しかし余裕のあるれいな。
あたしが攻撃を避けていくことは、当然想定しているだろう。
あとは、いつ、れいなの攻撃の隙を見つけてその腕を捕まえてやろうか、
それとも背後を取ってやろうか―――あたしは、次の次を想定し始めていた。
あたしはその時点で、たぶんれいなの術中にハマっていた。
れいなの動きが読み切れると、過信していた。
だから目の前かられいなが消えた時、あたしは次の行動が一切読めなくなった。
れいなの思考を読むことが急にできなくなったのだ。
つまり、れいなはその瞬間、頭の中を空っぽにしたことになる。
「なっ…!」
あたしが体勢を立て直そうとした時には、すでにれいなは無防備な背後に回っていた。
「がっ!!!」
首筋に強烈な打撃をもらってしまい、身体が傾く。
先に隙を見せてしまったのはあたしの方だった。
今度は正面に回り込んで、みぞおちに一撃。息が止まり、身体がくの字に曲がる。
受け身も取れずに倒れ込んだあたしに馬乗りになり、
れいなは顔を覗き込むように身体を前に傾けた。
「…やるや、ないの…」
「れーなをなめるなって言ったやろ」
身体のど真ん中への一撃がそうとう効いた。
上手く息ができず、鈍い痛みがずっと残っている。
「愛ちゃん、逃げんと?」
「逃げん、よ」
瞬間移動が使えないわけではないけど、使う気にもなれなかった。
『―――高橋さん、負けますね』
みっつぃが見た未来は、その通りにやってきた。
なんで負けるかとかそんなことは教えてくれなかったけど、
あたしは完全にれいなの前に屈していた。
「れーなの、勝ちやな」
あたしは呟く。
見上げるれいなの身体越しに見えた三日月がキレイだと、なぜかその時思った。
「…けど、まだ終わっとらん」
「…れーな?」
れいなの瞳は、青白かった。
そう、昔、あたしと初めて出会ったときのような―――
「本気出すって、言ったけん」
「れーなっ……!?」
―――これは、れいなが昔のように見境なく戦っていたときの瞳。
れいなは手を振りかざした。
あたしは、反射的に目を閉じた―――